法華経写本シリーズ
『法華経』を中心とした初期大乗仏教の研究に貢献するため
創価学会と東洋哲学研究所は、法華経写本を所蔵する世界の研究機関および研究者の協力を得て、「法華経写本シリーズ」の刊行を推進してきた。これは、各国に保存されてきた貴重な法華経写本を鮮明なカラー写真で撮影した「写真版」と、写本の“読み”をローマ字化した「ローマ字版」を公刊し、世界の研究者に広く提供して『法華経』を中心とした初期大乗仏教の研究に貢献するためである。1994年1月に出版委員会が発足し、1997年からシリーズ18全20点を発刊してきた。
また、当シリーズ発刊の契機の一つとして、当研究所創立者・池田大作SGI会長に対して、世界の研究機関等から貴重な「法華経写本」の複製やマイクロフィルム等が寄せられてきたことがあげられる。
梵文法華経の校訂本としては、これまで「ケルン・南條本」(1908-1912 年)、「荻原・土田本」(1934-1935 年)、「ダット本」(1953 年)などの先駆的業績があったが、今日の学問的水準から見ると、より正確で信頼に足りる校訂本が望まれている。当シリーズは、そのための基礎資料を提供するものである。校訂とは:同一の経典であっても、伝承の過程で異読(異なった表現)や誤写(写し間違い)が発生する場合がある。現存しているいくつかの写本(手書きの文書)を比較し、以下の3点を行うことを校訂という。
(1)いくつかの異読から、校訂者が適切と判断する読み(表現)を選択する。その際、できれば他の異読も注記で示す。
(2)誤写を正す。
(3)以上の2点を踏まえて、文章を確定する。
ご利用上の注意
このコーナーは創価学会「法華経写本シリーズ」を、写本原典所蔵機関及び創価学会、編者・執筆者のご厚意により、転載させていただいているものです。ご利用に際しては、下記の「ご利用上の注意」にご同意いただいた上での利用をお願いいたします。転載、複製、翻訳、販売、貸与、また内容の変更を固く禁じます。許諾をいただいたものから順次掲載してまいります。
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写真版とローマ字版について
梵文法華経の写本を「正確に読む」ためには、二つの大きな課題がある。当シリーズの写真版とローマ字版の刊行は、それぞれの研究機関及び専門家の協力を得て、これらの課題を克服し、世界の仏教研究に貢献するために企画された。<写真版>
世界各国の研究機関に所蔵されている貴重な写本は、白樺の樹皮やターラ樹の葉、紙に書写され、数百年以上が経過している。それらの破損や劣化を防ぐため、研究者が原本を直接見ることはほとんど不可能である。
これまで、研究者は、一世代前の写真技術によって撮影されたモノクロの写真画像でしか、写本を読むことができず、文字の欠落部分、墨の汚れ、微妙な筆遣いなどの判別が著しく困難で、それが、正確な解読の大きな障害となっていた。
当シリーズの写真版は、所蔵機関の協力を得て、最新の写真・印刷技術を駆使して刊行された、研究者にとってはオリジナルに比して遜色の無い学術的価値を有するものである。このことにより、一つ目の課題が克服されたといえる。
<ローマ字版>
第二の課題として、かりに写本を見ることができたとしても、その解読には高度な知識と習熟が不可欠であるという点である。現代のサンスクリット語に堪能な研究者がすべて、地域・時代によって異なる書体の写本を読みこなせるわけではない。その上、「写本」についてまわる欠落、後世の挿入や加筆がある。それらを「どのように読むか」は、語学的な知識とともに仏教用語への深い理解も必要となる。
こうしたことから、待望されてきたのは、写本の文字が正確にローマ字化されたテキストの発刊である。ローマ字化とは、写本の文字をローマ字に書き直し、誰でもその通り読めば、写本に書かれたテキストを音読出来るようにすることである。間違いや誤写を含めて忠実にローマ字化したものがあれば、これをもとに、より多くの研究者が研究資料として利用でき、刊行された他の写本との比較・対照も可能になる。
当シリーズのローマ字版は、「梵文法華経」写本研究の分野で世界的に令名の高い戸田宏文(1936-2003)徳島大学名誉教授(文学博士)の指導のもと、極めて精度の高い学術的価値を有するローマ字化の事業を進めることができ、二つ目の課題にも十分に対応可能な、高度な水準の出版となった。
梵文法華経写本の3系統
現存する梵文(サンスクリット語)法華経写本は、出土した地域や書写の場所により「ネパール系写本」「ギルギット系写本」「中央アジア系写本」に大別される。
1. ネパール系写本
書写年代:貝葉本(11-12世紀)、紙写本(17世紀以降)。ネパールのカトマンズ盆地やチベットを中心にした地域で発見された写本類で、貝葉本と紙本を合わせると、30 種類以上発見されている。ほとんど完本であることが他に類例を見ない点で、写本のグループ分けという独自の手法が成立する。貝葉本のうち、当シリーズで刊行された『ネパール国立公文書館所蔵 梵文法華経写本(No. 4-21)-写真版』と『ケンブリッジ大学図書館所蔵 梵文法華経写本(Add. 1682およびAdd. 1683)-写真版』は、比較的、古い読みを伝承しており価値が高い。
2. ギルギット系写本
書写年代 : 6-8世紀頃。1931 年、カシミール地方のギルギット(現在はパキスタンの実効支配地域)で発見された多量の写本に、法華経写本も含まれていた。白樺の樹皮(一部、紙写本を含む)にグプタ文字で書かれている貴重な写本。『インド国立公文書館所蔵 ギルギット法華経写本―写真版』が、2012 年、当シリーズとして発刊された。3. 中央アジア系写本
書写年代 : 6-10 世紀頃。「西域」と呼ばれたシルクロード周辺のオアシス国家の遺跡から発見された写本群である。最大のものは、ロシアのカシュガル総領事であったペトロフスキーが1893 年に入手したもので、「ペトロフスキー本」あるいは「カシュガル本」と呼ばれている。この写本は8世紀のものと推定されている。『ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所所蔵 梵文法華経写本(SI P/5他)―写真版』が、2013 年、当シリーズとして発刊された。ほかに、出土した地域、収集者、所蔵機関の所在地などにちなむ、カーダリク出土本、ファルハードベーグ出土本、マンネルハイム本、トリンクラー本、旅順(大谷)本とよばれる写本、その他、無数の断簡がある。本来、一ヵ所にあった写本が、さまざまな事情により、別々の国に所蔵されているのである。また、未整理のものもある。当シリーズの第1点目となった『旅順博物館所蔵 梵文法華経断簡―写真版及びローマ字版』は、ホータン出土と推定され、5-6世紀の書体から推定される古い読みを伝承している貴重な資料である。
「法華経写本シリーズ」の学術的成果
創価学会「法華経写本シリーズ」の学術的成果として、次の三点が挙げられる。
(1) 「法華経写本シリーズ」の18点には、「ネパール系写本」「ギルギット系写本」「中央アジア系写本」の梵文法華経の3系統に属する重要な写本が当シリーズで刊行された。
(2) 「ケルン・南條本」の校訂に使用された7種類の写本と2つの部分的なテキストのうち、6種類の写本が当シリーズで刊行された。
「ケルン・南條本」とは、1908年から1912年にかけてロシア・サンクトペテルブルクにおいて5分冊で出版された、世界最初のサンスクリット語の「法華経」の校訂本であるSaddharmapuṇḍarīka, Bibliotheca Buddhica. X.のことである。「ケルン・南條本」は、今日に至るまで、梵文法華経の標準的校訂本として用いられている。その校訂には、7つの写本と2種類の版本(フコーの石板刷りテキスト、ワイリー所有の木版テキスト)が使用された。当シリーズはそれらのうち、下記の6つの写本を刊行している。残りのワッタース将来写本の所在が不明なので、実質的にすべての関係写本を写真版もしくはローマ字版で網羅したことになる。
『英国・アイルランド王立アジア協会所蔵 梵文法華経写本 (No. 6)―ローマ字版』
『ケンブリッジ大学図書館所蔵 梵文法華経写本 (Add.1682 およびAdd.1683)―写真版 』
『ケンブリッジ大学図書館所蔵 梵文法華経写本 (Add.1684)―ローマ字版』
『東京大学総合図書館所蔵 梵文法華経写本 (No.414)―ローマ字版』
『大英図書館所蔵 梵文法華経写本 (Or.2204)―写真版』
『同ローマ字版』
『ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所所蔵 梵文法華経写本 (SI P/5 他)―写真版』(いわゆる、ペトロフスキー本、カシュガル本ともいう)
(3)当シリーズの刊行によって、世界の研究者に梵文法華経写本研究の将来の礎たりうる基礎資料を提供できたといえよう。
当シリーズには、ネパール系梵文法華経写本の研究にとって逸することのできない写本が網羅されている。すなわち、『ケンブリッジ大学図書館所蔵 梵文法華経写本(Add. 1682およびAdd. 1683)─写真版』は、南條が校合に用いた貝葉写本である。
『英国・アイルランド王立アジア協会所蔵 梵文法華経写本(No.6)―ローマ字版』は、いわゆる「ケルン・南條本」の底本として使用された紙写本であり、『パリ・アジア協会所蔵 梵文法華経写本(No.2)―ローマ字版』は、世界初の近代語訳であるビュルヌフの仏語訳(Le Lotus de la bonne loi, Paris 1852) の底本であり、『大英図書館所蔵 梵文法華経写本(Or.2204)―写真版』及び『同ローマ字版』は、「ケルン・南條本」の校合に用いられ、ネパール系貝葉写本のひとつのグループの読みを代表する貝葉写本であり、『ケンブリッジ大学図書館所蔵 梵文法華経写本(Add.1684)―ローマ字版』は、「ケルン・南條本」の校合と、ケルンの英語訳(The lotus of the true law, Oxford 1884)に使用された貝葉写本である。『ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所所蔵 梵文法華経写本(SI P/5他)―写真版』は、南條の最終原稿を見たケルンが、最後にテキストの読みに挿入した紙写本である。
当シリーズの最大の眼目の一つは、ネパール系貝葉写本と紙写本のグループ分けを可能な限り具体的に明確にすることである。これによって、「ギルギット=ネパール系梵文法華経校訂本」ともいうべきテキスト作成への展望が開ける。このグループ分けは、戸田宏文博士(1936-2003)が生前懐かれていた構想であり、それをローマ字テキストという具体的な形態で、日本のみならず世界の研究者に発信できることは、大きな喜びとなるものである。
今後の展望
A. プラークリット語で書かれたであろう最も古い法華経の原型の多くを伝える中央アジア系写本は断簡が多く、残念なことに、完本がないこと。
B. 法華経のギルギット系写本は、完本ではないが、ネパール系写本の祖型と考えられ、中央アジア系写本とは異なる伝承を持つ。
C. 法華経のネパール系写本は、11-12世紀に書写された貝葉写本と、17世紀以後に書写された紙写本に大別できる。それらの多くが完本である。
以上の事実から、「法華経」の新たな校訂本を編むためには、完本が揃うネパール系写本を考慮せざるを得ず、ギルギット写本を土台として、ギルギット=ネパール系校訂本の底本たり得る、ネパール系写本を模索することになる。ネパール系諸写本を整理し、分類する行程が不可欠な理由はここにある。この分類作業が格段に進展したのは、当シリーズの進行と軌を一にする。個々のネパール系写本の分類上の位置づけについては、ネパール系写本の刊行本の序等を参考にしていただきたい。
さらに言えば、中央アジア系写本を基にした別の校訂本の編纂もきわめて有益であろう。二つのテキストを対照すれば、法華経伝承の変遷がより明確になるのではないだろうか。