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香港中文大学と「東洋文化と現代社会」のシンポジウム

香港中文大学と「東洋文化と現代社会」のシンポジウム

◆テーマ:東洋文化と現代社会――儒教・仏教・道教による哲学対話
◆主催:香港中文大学中国哲学・文化研究センター、東洋哲学研究所
◆会場:香港中文大学
◆開催日:2006年11月23、24日


香港中文大学と「東洋文化と現代社会」のシンポジウム

香港中文大学で開催されたシンポジウムには、13大学29人の学識者らが出席。儒教、仏教、道教という三教間の対話を試み、それぞれの思想の今日的意義を追究するとともに、キリスト教や現代の心理学・哲学との関係など、活発に意見を交わした。


開幕式では香港中文大学の楊綱凱副学長があいさつ。台湾・華梵大学の労思光教授が「中国哲学研究に対する反省――苦境とそれからの脱出」と題し基調講演した後、14本の論文が発表された。


 そのうち、東洋哲学研究所の川田洋一所長は「現代社会における菩薩道」と題し、法華経はじめ大乗仏典に登場する菩薩の現代的意義に論及。この中で菩薩の「四弘誓願」は人間の自由を守り、生命への脅威を除く使命であり、今日の「人間の安全保障」の理念に通じると述べ、「現代における菩薩道」としてのSGI運動を論じた。


そのほかの13論文は次の通り(発表順)。


(1)「試論――道家式の責任感」(劉笑敢・香港中文大学中国哲学・文化研究センター所長)


(2)『法華経』における菩薩道と現実世界の重視」(菅野博史・東洋哲学研究所主任研究員)


(3)「理性、空性と歴史性――新儒家と京都学派の哲学対話」(林鎮国・政治大学教授)


(4)「儒教・仏教の孝道観の比較研究」(廣興・香港大学教授)


(5)「儒学の観点から見た孝道」(鄭宗義・香港中文大学教授)


(6)「近代中日仏教徒の対話――楊文会と南条文雄の交流」(陳継東・武蔵野大学教授)


(7)「キリスト教と東方宗教の間の二種の選択――容閎と新島襄の宗教観から説き起こす」(陳瑋芬・台湾中央研究院教授)


(8)「対論から和解へ――狂言『宗論』を通じて」(前川健一・東洋哲学研究所研究員)


(9)「荘子『蝴蝶の夢』の深層分析――道家、仏家と現代心理学」(姚治華・香港中文大学教授)


(10)「『儒・仏を統合し、疑滞を宣滌す』――柳宋元を例とする儒教・仏教観の考察」(林宏星・復旦大学教授)


(11)「法理と屈服――韓愈『論仏骨表』と儒・仏の対話」(黃耀堃・香港中文大学教授)


(12)「現代社会における宗教の新しい意味――『宗教』概念の脱自明化と可能性」(平良直・東洋哲学研究所研究員)


(13)「『シンガーラカ・スッタ』の諸訳本における在家者の注意事項に関する比較」(肖平・中山大学<広州>教授)


 閉幕式では、香港中文大学の張燦輝哲学部長が、シンポジウムの意義は大きかったとし、「現代の諸問題の解決へ、儒教、仏教、道教の教えをめぐる真剣かつ意義深い討議に大きな啓発を受けた」と述べた。


東洋哲学研究所の創立者・池田SGI会長はシンポジウムに送ったメッセージの中で、以下のように述べた。


「中国学術界を代表する碩学であり、貴大学の終身主任教授であられる饒宗頣先生は、私の著書である『私の釈尊観』の中国語版に『序』を寄せて下さいました。


その『序』の中で、未来、来世に理にかなった安穏な生活をおくることを生きがいとするインド人と、孝道を重んじ、現実を重視する中国人の思考を対比させつつ、両者を融合させたものこそ仏教の中道精神であるとして、このように述べておられます。


『中国とインド両文化はその基盤から大きな懸隔があって、本来交流することはたいへん難しいが、仏教の中道精神が計らずもこの二者を融合させることができた。東伝した仏教が大乗として花開き、多大な成果を残したことは、決して偶然ではない』と。


仏教の『中道』とは、快楽と苦行、有と無などの両極端に執着しない、中正の道をいいます。釈尊は、快楽主義、苦行主義の何れにも偏ることなく、偏見や極端を廃した生き方のなかに、正しい道である中道を求めたのであります。


仏教思想のもつ『中道』への志向性は、中国に入って、さらに展開されていきます。


吉蔵は『中』について、『中は実を以て義と為し、中は正を以って義と為す』と述べ、真実の正しい道をさすと定義しました。


また、天台は、『中道』思想を、空・仮・中の『三諦論』として論じました。


ここに『空』とは、人間をはじめ万物の内面世界をさし、『仮』とは、万物の現象面、顕在化した側面をさしております。そして『中』とは、内在面としての『空』と、現象面としての『仮』の双方を貫きつつ、止揚しゆく根源的で真正・不変の道理をさしております。これを『中道』と呼びます。    


ここで思い起こされるのは、私が二年前、饒宗頣先生から賜りました『中庸致中和』(中庸は中和に到る)との書であります。まさしく、古来、中国思想に流れる『中庸』『中和』の思想こそ、仏教の『中道』思想と通底する思考法であります。ともに人間の『中の徳』の表現といえましょう。


四書の一つである『中庸』には、『偏らざるをこれ中と謂い、易わらざるをこれ庸と謂う』とあり、いずれにも偏らない天下の道理を『中』、永久に易わることのない天下の条理を『庸』であるとしています。


さらに、『中庸』には、『喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり』とあります。


つまり『中』とは、喜怒哀楽の情となって現れる前の、偏りのない内面世界の『大本』をさし、その『中』が顕在化し、物事の節度に合致していき、『達道』となるところを『和』としています。


先ほどの天台の『三諦論』との対比でいえば、ともに『中』とは、宇宙森羅万象の永遠なる大道をさしております。『中庸』では、その働きが内面世界から顕在化して、物事の節度に合致していくと表現しております。


一方、天台は仏教思想に基づいて、『中』なる永遠の道理が、内面世界(空)から現象面(仮)へと顕在化しつつ、極端にとらわれない調和、バランス感覚を保ちながら、万物の真正のあり方を指し示していくところを『中道』としております。


このように『中の徳』――中道、中庸の思想こそ、人間をはじめとする万物の『内面世界』と『現象世界』を貫き、止揚しつつ、“節度の感覚”を備えた真実の人間の生き方を可能にするのであります。


今日において、『中道』、『中庸』の思想は、西洋物質文明への偏重を是正し、東洋の精神文明との調和(『和』)をなしゆく“真正の道”(『中』)であり、両者を止揚しつつ、新たなる人類文明を築きゆく『節度の感覚』に根ざした“総合智”であるといえましょう。


それ故に、トインビー博士との対談の締めくくりに私が、『二十一世紀の人類への提言は何か』と問うたとき、博士の答えは次のような意味のものでした。


『二十世紀において、人類はテクノロジーの力に酔いしれてきた。しかし、それは環境を毒し、人類の自滅を招くものである。人類は自己を見つめ、制御する知恵を獲得しなければならない。そのためには、極端な放縦と極端な禁欲を戒め、中道を歩まねばならない。それが二十一世紀の人類の進むべき道だと思う』と。


 今回の『儒教・仏教・道教の哲学対話』から、より明らかにされる“東洋の智慧”が、人類の進むべき道の第一歩を明るく照らしゆくものとなることを念願いたします」

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